キングコング西野亮廣から学ぶボケ人生
どうも、こんばんは。
今日は、自戒の念を込めて書いておきたいことがある。
それは、人生における「ボケ」と「ツッコミ」だ。
今の日本は、もはや「ツッコミ」の台頭がえげつない。
皆が一様にクラウチングポーズでツッコミ待ちをしている。
そこに、ボケが舞い落ちて来ようものなら、一億人が一斉にツッコミを入れる。
ご多聞にもれず、俺もその一人だ。
常に、相手のアラを探し、心の中でツッコミを入れている。
ツッコミ人生もだいぶ板に付いてきたので、何かが網膜に写れば、脳をすっ飛ばして、脊髄反射くらいの勢いで、ツッコミを入れるまでに成長した。
さて、もうお分かりだと思うけれど、これは漫才の話ではない。
人生の話。
漫才では、ボケ役の芸人さんがボケないと、そもそも漫才が始まらない。
ツッコミ役だけがいても、それは漫才ではないのだ。
いきなり、「なんでやねん!!」とツッコミを入れても、まるで誰も笑ってはくれないだろう。
つまり、物事を成立させるためには、漫才よろしく、ボケとツッコミが必要だと言うことだ。
だけど、舞台上で頑張っているお笑い芸人さんから、視点を上げて、この日本を見てみると、なんとツッコミ役の多いことか。
それこそ、もう、見渡す限りツッコミ役で、ボケ役はほんのわずか。
稀少!
絶滅危惧種!!
ここで言うボケ役とは、他人から笑われても、ひたすら自分の道を突き進む人のこと。
そしてツッコミ役とは、そんなボケ役を、ひたすらに嘲笑する人のこと。
これは、すごく極端な整理の仕方で、本当はグラデーションになっているし、もっと言えば、人はボケ役の時もあれば、ツッコミ役の時もある。
だけど、往々にして、ツッコミ役でいる時間が多くなっている。
でもね、漫才においてボケ役がいないと成立しないように、人生においてもボケ役がいないと成立しない。
「さっき電車で横に座ったあいつの服装めっちゃダサかったよな」
とツッコミを入れるためには、必ず笑われる対象のアイツが先にいる。
「不倫するなんて、人間の恥だ」
とツッコミを入れるためには、必ず不倫をしたアイツが先にいる。
こういう人生をかけてボケにきているアイツがいなければ、ツッコミ役はツッコミ役にすらなれない。
つまり、俺らが誰かにツッコミを入れれていると言うことは、裏を返せば、その誰かによって、初めて役割を与えられているワケ。
だから、ツッコミ役は、ボケ役に感謝こそすれ、ボコボコにして吊るし上げるなんてもっての他だ。
そう考えると、ツッコミ役は惨めだ。
所詮、ボケ役に依存して生きるだけのコバンザメ商法だ。
自分一人では、何もできやしない。
その点、ボケ役のなんとも輝いていること。
ボケ役がボケようものなら、大勢のツッコミ役からツッコミが入り、そして議論が深まる。
時に、その議論から、新しい何かが創造される。
ボケ役が多ければ多いほど、日本は輝くんじゃないかとさえ思えてくる。
そんな俺が最近気になっているのが、お笑い芸人のキングコング西野亮廣氏である。
最近はリベンジ結婚式で話題となったが、彼の生き方はすごい。
やれ「ひな壇に出ない」と言ってみたり、
やれ、お笑い芸人のくせに絵本書いてみたり、
やれ、突然スナックを作ってみたり、、、
もう、生き方がボケ人生のど真ん中なのである。
正直、ツッコミ役にとってみれば、この上ない上物である。
何せ、ツッコミどころが満載だ。
おそらく、西野氏と一緒に1月でもいようものなら、ツッコミ役は一生分くらいの量のツッコミが消費されるだろうね笑
そして、ここがすごいところなんだけれど、
西野氏の通った後に、炎上という名の議論が巻き起こって、市場が形成されていたりする。
うん。
これがボケの生き方だよね。
ボケこそ、これからの日本に大切な生き方なんだよね。
俺も今日、一日中、横で仕事している後輩に、心の中でツッコミまくりで、そんな自分に辟易していたので、このエントリーを書いてみた。
誰かにツッコミ入れる暇がないくらい、ボケた人生を歩もう。
万が一、ツッコミを入れてしまったとしても、「ボケてくれてありがとう」と思うようにしよう。
振り返れば、面白いなぁ〜と思った原点は「志村けん」さんだった。
志村けんさんのお笑いは、まさにボケど真ん中笑
それが、中学校くらいになってくると、「志村けん面白いよね〜」とかいうと、マセた同級生から「小学生かよ〜!お笑いは断然松っちゃんでしょ〜」と言われたことを今でも覚えている。
松本さんのお笑いは、ツッコミだよね。
それも、ボケに対してのツッコミじゃなくて、見逃してしまうような小さなボケの種みたいなものにツッコミを入れている。
そうやっていつの間にか、ツッコミが正しいって思ってしまっていたけれど、今日の気づきを新たに、ボケまっしぐらでやってみようと思う。
それは、つまり、笑われるくらいがちょうどいいってこと。
頑張ろう。